アンティークの修理は全ての部品を設計する特注照明とは違った難しさがある。
内部構造が必ずしも作業者にとって都合の良い状態であるとは限らない。
電気を通す為に日本製の電材を組み込む相手は、時代や国が違うので当然規格も異なるもの。
大まかに言えば、バラバラの規格の部品達の互換性を持たせて、電気に関わる部材を全て日本のものに変える作業。(詳しい事はややこしくなるので別の機会にしようと思う)
時にはパーツの欠損や機能部品の故障など外観を変更するという手段を取らざるを得ないこともある。
照明器具においては、国の安全基準の違いから、全てをオリジナルのパーツで構成する事がほぼ不可能な為「直す」=「デザインを壊す」という皮肉な性質をもっている。
「修理」という作業はアンティークが好きな僕にとって心苦しい作業である。
電気が点くようにするというゴールなら、一般的な知識と技術でクリアできるだろう。
そこにデザインに対してリスペクトを持って、「いい感じ」に修理するとなると一段とハードルが上がり、専門的な技術に加えてどう改変するかという判断(安全性、各パーツの互換性、デザイン性の確保)が求められ、各所ごとに一問一答の連続だ。
「モノを直す」という作業もまた、特注照明を作る事と同じくらい、方法や仕上げ方に千差万別の解答があるなとつくづく思う。
時には物理的に無理があるものに対しても、なんらかの処置(=解答)を模索するというのは、他人が考えたものに整合性を取らなくてはいけない修理ならではの難問だと言える。
リスクと作業の負担ばかりの内容ばかりになってしまったけど、修理をやっている理由は何かというと、「学びの為」でしかない。
変な表現になってしまうが、様々なメーカーが作った製品の未来の状態、何年後か先の姿として僕達の所にやってくる。
全て生産当時のオリジナルのもの、誰かの手によって修理されたもの、何が先に壊れるか?なぜそこが壊れたか?まさに千差万別の解答によって世に出され、更にその先(生産や作業に対する合否)を見ることができる。
修理物から得られる情報はトラブルに関する事ばかりなわけではない。
製品の表も裏も余す所なく目の当たりにできるのは修理者だけの特権と言えるだろう。
デザインする事の多くは、機能を満たす構造的な部分と意匠性のバランスをとる作業だと思うが、照明ならではの課題として電気に関わる部材や、必要な処置の為の部材というややこしいもの達をうまく納める事が求められる。
そしてそれを組み立てるのに必要な空間や部品同士が組み合うクリアランスの確保…
図面上でカタチになっていても、そもそも工具が入らないからそこのナットは締められないなんてのは良くある話。
照明を作るということは、デザイナーと製作者がお互い譲れない部分を擦り合わせながら、落とし所を探してやっとの事でカタチになっていく。
僕にとって内部構造を見るという行為は、そんな苦労をどうに解決したかを知る行為であり、設計者の頭の中を覗いているような感覚になってニヤニヤしてしまう自分が居たりする。
正直に言ってしまうが、リスクや与えられた予算的な事を考えたら、修理は業務としてやるべきでは無いと言い切れる。
だが、製品にリスペクトを持つ一職人にとっては視点を変えるだけで、「難問を解く面白さ」と「デザイナーの脳内覗き」という悦楽に変換され、やりたくないけど、やりたくなる理由ができてしまう。
もう少し美徳的な話ができると思いきや、職人という立場のリアルはこんな事情でした。
寺島